FBI shuttered its DEI office after Trump’s election win as critics demand national security focus
The FBI quietly closed its diversity, equity and inclusion (DEI) office a month after President-elect Donald Trump’s 2024 election victory, The Post has learned. “In recent weeks, the FBI took…
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松山弘平騎手「忘れない」助け合う大切さ 阪神・淡路大震災から30年(日刊スポーツ) – Yahoo!ニュース
サトノグランツで日経新春杯に挑む松山騎手 95年1月17日に発災して甚大な被害が出た阪神・淡路大震災から、きょう17日で30年を迎える。兵庫・神戸市で生まれ育った松山弘平騎手(34)も、幼少期に被災した。当時を振り返りながら、改めて助け合うことの大切さを語った。 松山少年は当時4歳。記憶も曖昧な中、震災の経験は今も覚えているという。 「まだ小さくて覚えていることと覚えていないことがありますが、あれだけの出来事だったので覚えていることもあります。本棚が倒れたり、食器がぐしゃぐしゃになったり、テレビがもとあった位置から飛んでいたのが印象的でした。毛布にくるまって、体育館に逃げたりもしました」 震災の影響で祖父母が仮設住宅生活を余儀なくされるなど、身近な人にも影響が及んだという。あれから30年。時がたっても、当時の経験から助け合いの心を大切に思う。「今こうして30年がたち、あの時に助け合うことを経験しました。いろんな人に家族がいろいろと助けてもらったので。その気持ちは忘れないでいきたいです」。被災した経験を胸に刻み、競馬にも向き合っていく。 日曜中京メインの日経新春杯は、初コンビとなるサトノグランツで挑む。 日刊スポーツ ******* **************************************************************************** ******* ****************************************************************************
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母、兄へ「いまは幸せ」 震災遺児がどん底で出会った妻との二人三脚
阪神大震災当時住んでいた地区の慰霊碑に手を合わせる大田誠さん(手前)、(右から)妻久美子さんと子どもたち=神戸市東灘区で2024年12月29日、長澤凜太郎撮影 1995年1月17日に最大震度7を観測した阪神大震災から間もなく30年。神戸市や兵庫県南東部の阪神地域、淡路島を中心に甚大な被害が出た。6434人が犠牲になり、3人が行方不明のままだ。 戦後最大の都市型災害は、親を失った震災遺児を多数生み出した。 兵庫県三木市の大田誠さん(41)もその一人。母と兄を失い、借金を重ねた父は失踪した。遺児として生きる中で、あの日のことを語ることはなかった。その後、一人の女性と出会って結婚。ある日、妻に向かって長年消えることのなかった自責の念をぽつりぽつりと語り始めた。母と兄が亡くなったのは「僕のせいや」と。 Advertisement 次第に弱まる兄の声 大田さんは神戸市東灘区で、寡黙で厳しいトラック運転手の父と優しい母に育てられ、兄2人、妹の6人家族だった。 あの日の午前5時46分、きょうだい4人は同じ部屋で眠っており、隣の部屋には両親がいた。 2段ベッドの下段が寝床だった当時小学5年の大田さんは、「ドン」という衝撃音で眠りから覚めた。目の前にはベッドの上段が迫り、何が起きたのか、分からなかった。 阪神大震災で亡くなった大田あい子さん=大田誠さん提供 「あい子、あい子」。隣の部屋からは父が母あい子さん(当時36歳)の名を必死に呼ぶ声が聞こえた。 真っ暗闇のなか、大田さんはきょうだいの名前を順番に呼んでいった。 次兄の亮さん(当時13歳)に「りょうくん……」と呼び掛けると、初めは聞こえていた兄の声が次第に弱々しくなり聞こえなくなった。 倒壊した木造2階建てアパートの1階部分から大田さんと妹が先に近所の人たちによって救出された。避難所となっていた小学校に移動し、家族が来るのを待った。 だが、昼ごろ悲報が届いた。 「お母さんと亮くんが亡くなった……」。近所の人からそう告げられた。 「僕のせいや」。大田さんは前夜の出来事を思い出して、そう思った。 夕食時、大田さんはふざけて茶わんのご飯の上に箸を刺した。父から「亡くなった人にすることや」と厳しく怒られた。 「あんなことをしなければ……」。自責の念に駆られた。 阪神大震災で亡くなった大田亮さん=大田誠さん提供 震災当日の記憶はそこで途切れている。 しばらくして長兄、妹とともに和歌山県の祖母宅に預けられた。神戸へ戻ったのは1年後の春。中学入学の直前だった。 久々に通学路を通ると、母と兄との思い出があふれてきた。「ここで亮くんと遊んだな」「お母さんと買い物したな」。恋しくなってアパートの跡地周辺を一人歩いた。 家族離散に 再び神戸のマンションで一緒に暮らすようになった父も悲しみと闘っていた。酔って帰宅すると、仏前で母の名を呼びながら肩を震わせた。 父は生活のために借金を重ねていた。中学を卒業した大田さんは働き始めた。そのうち、借金取りが家を訪れるようになった。 ある朝突然、父親から「引っ越しをする」と告げられた。行き先は父親の知人の会社の寮だった。しばらくすると、父は姿を消してしまった。 「お父さん、帰ってないんやろ」 会社側は滞在を黙認してくれていたが、数カ月たった頃、退去を求められた。 「自分だけなら家がなくても生きていけるけれど、アルバムや仏壇など家族の思い出の詰まった荷物をどこへ持っていけばいいのか」と途方に暮れた。20歳の冬のことだ。…
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阪神・淡路大震災がもたらした「正の遺産」|阪神淡路大震災30年
2025/01/17 04:30 ウェザーニュース 30年前の阪神・淡路大震災は、6000人を超える犠牲者と全半壊家屋約25万棟、10兆円を超える甚大な被害をもたらしました。しかし、「負の遺産」だけでなく「正の遺産」も残しました。大震災がもたらし、私たちが引き継いだ「正の遺産」とは何でしょうか。 阪神・淡路大震災をきっかけに災害ボランティアが定着したため、1995年は「ボランティア元年」と呼ばれています。ボランテアの延べ人数で、阪神・淡路大震災が167万人、東日本大震災が550万人など復興の助けになっています。地震だけでなく、豪雨被害でも民家の泥かきなどに活躍しています。 【震度階級に「5強」などを新設】 震度0〜7の8段階が設けられた1949年は観測員が体感で測っていましたが、1980年代後半から震度計による計器観測を取り入れました。阪神・淡路大震災時、震度階級は8段階のままでしたが、1996年4月に体感による観測を全廃し、震度計による観測に完全移行するとともに、幅が大きかった震度5と6にそれぞれ「弱」と「強」を設けて10段階となりました。 【東京消防庁にハイパーレスキュー創設】 阪神・淡路大震災を教訓に大規模災害に対応するため、高度な救出救助能力を有する隊員と装備で編成される消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)が1996年12月、東京消防庁に発足しました。所属は東京消防庁ですが、国内の大規模災害だけでなく海外の地震・森林火災・噴火災害・豪雨被害などへも派遣されています。 【災害派遣医療チーム(DMAT)発足】 阪神・淡路大震災は、被災者に対する初期医療の遅れを露呈しました。当時の医療技術でも「500名は救えたはず」と言われました。これをうけて、2005年に厚生労働省の日本DMAT(ディーマット)が発足しました。基本的に1チーム5人(医師1人、看護師2人、業務調整員2人)で構成され、要請があれば現場に3日〜1週間滞在して活動します。初仕事は2005年4月に発生したJR福知山線脱線事故でした。 【カセットコンロ・ガスボンベの規格統一】 阪神・淡路大震災の被災者はカセット式のガスコンロを利用しましたが、メーカーによってガスボンベのサイズや構成部品が異なるため不便が生じていました。これを教訓として1998年2月に日本工業規格が改正され、ボンベの形状が1種類に規格化され、どのメーカーのカセットコンロでも統一されたボンベを使うことができるようになりました。 【水道レバーが「下げ止め式」に】 水道の湯水混合水栓のレバーは、阪神・淡路大震災の前まではレバーを上げると止まる「上げ止め式」が普及していました。しかし、大震災でレバー周辺の物が落下して水道水が出しっぱなしになるという事例が多発。欧米など海外のほとんどの製品も「下げ止め式」を採用していたことから、経産省は2000年4月1日から「下げ止め式」に統一し、その後はレバーを下げると止まる「下げ止め式」が普及しました。 【地震保険が普及する】 火災保険では、地震・津波・噴火による損害は保障されません。そこで1966年に地震保険がスタートしましたが、加入率は低迷していて阪神・淡路大震災時に契約件数は約397万世帯(世帯加入率9.0%)でした。しかし、大震災を契機に約518万世帯(世帯加入率11.6%)と前年比30%増の伸び率を記録しました。ちなみに2023年度の地震保険の契約件数は約2148万万世帯(世帯加入率35.1%)です。阪神・淡路大震災の経験から学んだことは少なくありません。その教訓を取り入れて実践することが、今後の被害・損害を少しでも減らすことにつなげましょう。 » 関連記事「あなたの家は大丈夫? 家具類の転倒・落下・移動防止策」 » 関連記事「阪神・淡路大震災から30年 あの頃に緊急地震速報など現代技術が存在したら?」 » お天気ニュース記事をアプリで見る» お天気ニュース記事一覧 ウェザーニュースアプリでお天気アラームを設定すると、今いる場所の天気・台風・地震・津波などの情報をいち早くプッシュ通知で受け取れます。 出典・参考 東京消防庁「消防救助機動部隊」、日本管材センター「シングルレバー統一への道」、損害保険料率算出機構「グラフで見る!地震保険統計速報」 札幌 仙台 新潟…
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フジテレビ・港浩一社長、きょうの「会見」は中居正広「騒動」への「一連の報道について説明する方針」…「めざましテレビ」報道(スポーツ報知) – Yahoo!ニュース
フジテレビ フジテレビ系情報番組「めざましテレビ」(月~金曜・午前5時25分)は17日、同局の港浩一社長(72)ら幹部が出席しタレント・中居正広(52)による騒動に関して説明することを報じた。 番組では、港社長の会見は、中居の「女性トラブルなど一連の報道についてフジテレビは今日、港浩一社長らが定例記者会見で説明する方針です」と伝えた。 さらに中居を巡って「一部週刊誌などが女性との間にトラブルが発生し中居さんが女性に解決金を支払って示談したなどと報道していました。また女性に対するフジテレビ幹部の対応などの問題も報じられています」と報道した。 続けて同局が「去年から外部の弁護士を入れて事実確認の調査を行っていて、今後の調査結果を踏まえ適切な対応をするとしていますが、今日の定例会見で港社長らが一連の報道について説明する方針です」と伝えた。 報知新聞社 スポーツ報知 ******* **************************************************************************** ******* ****************************************************************************
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診療報酬詐取容疑で歯科医ら逮捕 被害総額2000万円か―警視庁:時事ドットコム
時事通信 社会部2025年01月16日14時24分配信 警視庁本部=東京都千代田区 外国人留学生の保険証を悪用し、歯科医師らが診療報酬をだまし取ったとされる事件で、警視庁国際犯罪対策課は16日までに、詐欺容疑で、歯科医師、小山大貴容疑者(34)=大阪市西区阿波座、ネパール国籍の職業不詳、シャヒ・ラビ容疑者(37)=名古屋市中川区花塚町=を逮捕し、歯科医師、大石旭容疑者(61)ら5人を再逮捕した。 マイナ保険証、利用伸び悩み 安全性への懸念背景か 同課によると、7人は2023年5~10月、自治体にうその診療明細書を提出し、計約2000万円を不正に受け取っていたとみられる。 逮捕容疑は23年6月上旬、ネパールとミャンマー、スリランカの留学生や技能実習生ら計62人を診療したように装い、診療報酬計約287万円を詐取した疑い。 大石容疑者らは「無料で歯科検診をする」と宣伝。留学生らを集めて診察する際に保険証の写真を撮影していた。保険証情報を基に、小山容疑者の名義で虚偽の明細書を作成するなどし、愛知県と三重県の自治体に申請し診療報酬を得ていた。 大石容疑者は「日本人だと発覚しやすいが外国人はばれづらいと思った」などと話しているという。 最終更新:2025年01月16日14時34分
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ソフトバンクに人的補償移籍の巨人・伊藤優輔を同期入団の盟友が語る「常に冷静で淡々とやっていた」 – スポーツ報知
巨人の伊藤優輔投手(28)がFAで加入した甲斐拓也捕手(32)の人的補償でソフトバンクに移籍することが16日、両球団から発表された。新天地での背番号は「42」。また、伊藤と同期入団で同じ21年に右肘トミー・ジョン手術を受けてリハビリをともにした奈良木陸氏(26)=現巨人DA(データアナリスト)=が人柄を語った。 伊藤さんのすごいところは、メンタルコントロールのうまさです。僕自身、何をやってもうまくいかず、良くないと分かっていても悩むしかない時期がありました。ですが、伊藤さんは常に冷静に、今やるべきことを淡々とやりつつ、将来自分がしたい投球に必要なトレーニングを逆算して取り組んでいました。 23年にそろって実戦に復帰しましたが、何かあった時には相談をしました。手術したからこそ分かる深い話ができて、正直に悩みを打ち明けることもできました。体と向き合いながら視野を広く持っていて、新しいトレーニングや治療器を試して「こういうことに取り組んだら、すごく良くなったよ」と教えてもらうこともありました。 昨季2軍で結果を残して支配下に昇格し、着実にステップアップする姿は同期として誇らしくもありました。新天地でも1軍で抑えている姿を見せてもらいたいです。(巨人元投手・奈良木陸)
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「大切な人がそばにいるのは当たり前じゃない」 震災で家族亡くした遺族代表が語る30年
献花する遺族代表の長谷川元気さん(中央)=17日午前6時6分、神戸市中央区(竹川禎一郎 撮影) 「大切な人は、いて当たり前じゃない」。阪神大震災から30年となった17日、遺族代表として追悼の言葉を述べた神戸市垂水区の小学校教諭、長谷川元気さん(38)は、幼いころに痛感した教訓をかみしめるように語った。母と弟を失った震災からの30年は、二度と戻らない日々への後悔と、支えてくれる人への感謝を知った時間でもあった。灯籠でかたどられた「よりそう」の文字の前で、経験を後世に伝えていく思いを新たにした。 夜明け前、肌を刺すような寒さの同市中央区の東遊園地。震災の犠牲者に黙祷(もくとう)をささげた後、長谷川さんはゆっくりと語り始めた。 30年前のあの日、小学2年生だった長谷川さんは、両親と弟2人の5人で、同市東灘区の木造アパートの1階に住んでいた。 在りし日の長谷川さん一家。翔人ちゃんを抱っこする母の規子さんの前にいるのが元気さん(長谷川さん提供) 大きな揺れで2階に押しつぶされる形で自宅が全壊。父と長谷川さん、弟1人は自力で脱出したり、近所の人に助けられたりするなどして奇跡的に助かったが、母の規子さん=当時(34)=と、1歳だった末っ子の翔人ちゃんは、たんすの下敷きとなって亡くなった。 父が手を尽くしている間、公園で待っていたが、日が暮れ始めたころに戻ってきた父の「あかんかった」という一言が忘れられない。 規子さんは保育士で、周りの子供たちと鬼ごっこなどで一緒に遊んでくれる明るい理想的な母だった。翔人ちゃんは、サッカーボールを蹴るのが上手で、長谷川さんは「立派なサッカー選手になれる」と将来を想像していた。「もう会えないんだ」と涙があふれた。 その後の生活は、2人がいない寂しさが付きまとった。友達と話していても、「お母さん」という言葉が聞こえるたびに悲しみがこみ上げ、学校の運動場の隅で泣いた。 そんな様子に気付いて優しく背中をさすりながら「大丈夫よ」と励ましてくれたのが、当時の担任の先生だった。「先生のようになりたい」という思いが、教員として働くことになったきっかけだ。 「もっと優しくすればよかった」「どうして、もっと一緒に遊んであげられなかったんだろう」。2人への後悔の気持ちもあった。大切な人は突然いなくなることがある。そうして気付いた現実を前に、「自分のように後悔してほしくない」と、教え子には災害に向けた備えや、身近な人に感謝の気持ちを伝える大切さを伝え続けてきた。平成26年には市民グループ「語り部KOBE1995」にも参加し、現在は代表を務めている。 この日、東遊園地には、震災を知らない若者や子供の姿もみられた。記憶や経験の風化で、同じ被害が繰り返されることがあってはならないと思う。「災害を自分事として捉え、今できることを考える『防災・減災のスタートライン』に立つことが大切。多くの人に、これからも震災の教訓を語り継いでいきます」。そう力を込めた。 阪神大震災から30年 鎮魂の祈りに包まれる神戸が迎えた午前5時46分
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J1神戸の全選手、スタッフが「阪神・淡路大震災1・17のつどい」に参加、吉田孝行監督「あの日の揺れは忘れない」 – スポーツ報知
J1連覇を果たした神戸は17日、全選手、スタッフら約60名で「阪神・淡路大震災1・17のつどい」に参加した。東遊園地で行われ、地震が発生した5時46分に黙とう。吉田孝行監督は「本当にそういう夢を持ってね、本来なら夢に向かって頑張って欲しいけど、亡くなった方の分も一日一日を大事にして生きないといけないなと思いました。サポーター、応援してくれる方に、みんなに笑顔を与えられるように、日々努力するだけです」と話した。 Jリーグ昇格を目指して始動した1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生。当時、高校3年生だった吉田監督は兵庫・川西市の自宅で被災した。指揮官は「あの日の揺れは忘れられない。忘れないでおいて、しっかり何かあっても備える。しっかり備えられるようになればいいなと思う。あとは本当に亡くなった方の分も一生懸命生きなきゃと思います」と当時を振り返った。選手全員で集いに参加するのはクラブでは初めて。吉田監督は「震災の日に初練習があって、震災とヴィッセル神戸はともに立ち上がったクラブ。僕たちはサッカーを通して震災を知らない世代にまで伝えないと」と力強く話した。 昨季、天皇杯優勝、リーグ連覇の立役者となり、MVPを獲得した元日本代表FW武藤嘉紀は「大きな犠牲があった神戸の地でサッカーをやらせてもらっている。幸せとあらためて感じた。サッカーを通して多くのパワーを与えないといけない。語り継がれた思いをしっかりくみ取って、後世の方にも引き継いで、この大震災は経験もともに引き継いでいかないといけない」と言葉を詰まらせながら、思いを語った。
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「子どもたちを頼む」激震で下敷き、火災にのまれた父 最期の言葉を胸に抱き30年、3児の父に 阪神・淡路大震災
3人の息子とアルバムをめくり、震災で亡くなった父のことを話す高橋朗さん(右端)。息子は左から幸太さん、太一さん、一生さん=神戸市長田区(撮影・大田将之) 神戸市長田区の会社員、高橋朗さん(40)は小学5年生のとき、阪神・淡路大震災で父を失った。「子どもたち3人を頼む」-。父が言い残したという最期の言葉を胸に抱き、この30年を生きてきた。あのときの父と同じように、今の朗さんには3人の息子がいる。17日は地震発生時刻の午前5時46分に合わせ、親子で手を合わせる。 朗さんは3人兄弟の末っ子。1995年1月17日のあの朝は同区日吉町の自宅で寝入っていた。パン職人の父、修さん=当時(39)=は自宅から100メートルほど離れた若松町で祖父とパン店を営んでいた。仕込み作業に追われていた早朝、激震が襲う。 母が様子を見に行った。3人兄弟は自宅で身を寄せ合っていたが、窓から煙が見えた。「火、出とるぞ」との声も聞こえる。パン店の方向だ。兄弟は家を飛び出した。途中、手足から血を流した祖父に会った。 「朗君、ごめんな。お父さん、死んでもうた」 倒壊した店の下敷きになり、動けなくなった父はそのまま火災にのまれたという。数日たって、焼け跡で遺骨を拾った。 近所でもたくさんの命が失われた。「自分だけじゃない」と自らを慰める一方で、父の死を信じたくない自分もいた。「もしかしたら、どこかに逃げてるかもって。その年の秋くらいまで、ずっと父ちゃんを捜していた」 看護師の資格を持っていた母は病院で働き始めた。朗さんは、机に医療関係の本を何冊も並べ、勉強していた母の姿を覚えている。 兄弟は、地域の人たちにかわいがられて育った。消防団に、子ども会にと地元で駆け回っていた父のおかげだろう。 社会人になり、2007年に結婚。11年に長男を授かり、中学生から幼稚園児まで3人の子に恵まれた。父が自分にしてくれたように息子と将棋を指し、釣りに行く。地域の子たちにはサッカーを教えている。 長男幸太さん(13)が小学5年生になると、朗さんは震災の話をした。自分が父を失った年。伝えなくてはと思った。「いつどこで大切な人がいなくなるか分からない。今日、明日、1時間後かもしれない。だから後悔しない言葉、態度を心がけてほしい」。1月17日は地域の追悼行事に息子たちを連れて行った。 朗さんの胸には父の最期の言葉がある。火の手が迫る中で死を覚悟し、「助けて」ではなく、「子どもを頼む」と言った父。その言葉を受けて、自分たちを懸命に育ててくれた母。ありがたいと思う。すごいと思う。 次男の太一さん(11)も小学5年になった。父が亡くなった場所近くにある震災慰霊碑へ、きょうは子どもたちと行く。そして、あの日のことを語るつもりだ。(中島摩子)
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