
脳梗塞で死去・吉田義男さん、川淵三郎さんは「日本サッカー界、ヨーロッパに拠点ができたことは吉田さんのお力添え」(中日スポーツ)|dメニューニュース
プロ野球阪神の名遊撃手で、監督として1985年に球団初の日本一に導いたのため死去したことを受け、日本サッカー協会は4日、吉田さんと親交があった川淵三郎相談役の追悼文を公表した。 【追悼文全文】 吉田義男さんの訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。 フランスで野球の代表チームの強化に携わられ、野球の発展に尽力された吉田さんですが、私はもとより日本サッカー界も大変お世話になりました。 吉田さんと初めてお会いしたのはFIFAワールドカップフランス1998の数年前、早稲田大学蹴球部の先輩と日本サッカー協会とつながりのあるパリの旅行代理店の社長を通じて知り合い、そのご縁でフランスサッカー連盟(FFF)の幹部を紹介していただきました。 今ほど力がなかった当時のサッカー日本代表にとって、世界トップクラスのチームと対戦することはほぼ不可能でしたが、吉田さんにその足がかりをつくっていただき、フランス代表とも何度か試合を組むことができました。 FFFとのつがなりができ、ヨーロッパに拠点ができたことは、吉田さんのお力添えがあったからにほかなりません。 以来、吉田さんと親しくさせていただきましたが、渡仏した際、わざわざシャルル・ド・ゴール空港に車で迎えに来ていただいたときは本当に恐縮しました。忘れがたい思い出です。 生前中のご厚情に深く感謝申し上げるとともに、故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 公益財団法人日本サッカー協会 相談役 川淵三郎
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カープOB会名誉会長の安仁屋さん 大恩人の訃報に言葉失う 阪神でカムバック賞受賞 番組共演で放送事故寸前の話も(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース
吉田義男さん=23年4月撮影 元阪神監督の吉田義男さんが3日に脳梗塞で亡くなったことが4日、分かった。91歳。球団が正式に発表した。「牛若丸」、「ムッシュ」の愛称で親しまれた虎のレジェンドが逝った。 【写真】秘蔵ショット阪神時代の両雄 広島、阪神で投手として活躍し、広島カープOB会名誉会長の安仁屋宗八さん(デイリースポーツ評論家)は、大恩人の死を広島のキャンプ地・日南で知ると「えっ、昨年末の(阪神の)OB会で会ったときには元気だったのに…。言葉がみつからない」と、吉田さんの訃報に言葉を失った。 広島時代の晩年、4年連続1桁勝利に終わった。1974年オフに若生智男との交換トレードで阪神に移籍。吉田監督1年目、安仁屋さんにとっても移籍1年目の75年、抑えとして起用され自己最多の66試合に登板。12勝5敗7セーブ、防御率1・91で最優秀防御率賞とカムバック賞のタイトルを獲得した。 「わしにとっては、阪神に呼んでくれて、大事にあつかってくれた大恩人」 60年代は広島のエースとして活躍しながら70年代に入って不満の残る結果だったが、阪神移籍が転機となり再び輝きを取り戻した。それもすべて吉田監督のおかげだった。夜の深酒を黙認、登板が近くなる試合終盤までリリーフカーで眠ることも許してくれた。 「単身赴任で関西に行っていたけど、吉田さんの自宅に呼んでもらって奥さんの手料理をごちそうになった。本当に大事にしてくれた」 ユニホームを脱いでからも吉田さんとの交流は続いた。関西の吉田さんのラジオ番組に電話出演したこともある。 「事前の打ち合わせで昔話の中で話題にしてはだめと言われていたのに、その話題を吉田さんが出してきた。放送事故になりかねない昔話になった。おおらかな人だった」 監督として、球界の先輩として交流を続けていただけに「1年でも1日でも長生きしてほしかった。心よりご冥福をお祈りいたします」とさびしそうに語った。 デイリースポーツ ******* **************************************************************************** ******* ****************************************************************************
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最強寒波が列島に 北海道は記録的大雪
スーパーJチャンネル [2025/02/04 20:15] 2 北海道では、たった一晩で1メートルを超える記録的な大雪。列島を襲っている今シーズン最強の寒波、ピークはこれからです。 ■帯広で観測史上最多の降雪 見たことがないほどの雪の降り方。今季最強の寒波が襲来した列島、ピークはこれからです。雪は、日本海側ではなく、意外な場所から強まってきました。 夜明け前の北海道・帯広、普段は片側2車線の道ですが、何車線かも分からないほどの雪が積もり、さらに降り続きます。 3日夕方、積雪5センチだった帯広、夜になり大量の雪が降り始めます。12時間で降った雪の量は120センチと、日本の統計史上一番の記録を更新しました。 一夜明け、一面雪景色となった帯広。歩道はもう歩けないのでしょうか。車道を歩くしかありません。帯広市内の住宅で扉を開けると、とても外に出られる状況ではありません。夜が明けても雪の勢いは衰えず、車もスタックします。 災害級となっているのは、帯広だけではありません。寒気がやってくる前から、交通インフラは危機的な状況です。 記録的な雪となった帯広、積雪は120センチを超えました。実は、道内では比較的雪が少ない帯広で120センチを超えるのは実に53年ぶりのことです。 慣れない大雪のためか、車が道路の真ん中で立ち往生しています。バスも雪で覆われ、とても運行できる状況ではありません。 バス会社 「きょうは終日運休になった。入社して記憶にあるかなというくらい、こんなに降ったのは久しぶり」 北海道・釧路も記録的な雪となっています。今季一の積雪となった釧路市立の小中学校は休校に…。 バスも運転を見合わせています。頼みの綱のタクシーも…。客も一緒になり押しますが、再びはまってしまいました。 住民 「釧路はあなどれない。夕方まで降るっていうから、一度(雪を)取っておかないと。入り口が開かなくて大変」 北海道は、記録的な雪に関する対策会議を開き、対応に追われています。 雪害対策連絡会議 「昭和45年(1970年)3月の豪雪を上回るような、北海道としても過去に例を見ないような記録的な大雪となっている」 「今季最強」、そして「最長」と言われる寒波。ただ、北海道に関しては、まだ寒波が襲来する前の話です。津軽海峡付近にある低気圧と海水温が高い状況から、大雪になったとみられています。 次のページは ■関西でも積雪 城崎温泉が白く染まる 寒波が襲来した北陸、徐々に雪が強まります。富山では、合掌造りもすっかり雪に埋もれています。 不要不急の外出を控えるよう呼び掛けられましたが、受験は待ってくれません。 受験生 「行けるかなと心配したけど、無事に到着できてよかった」 雪は関西でも…。兵庫・城崎温泉、志賀直哉も愛した温泉街は白く染まります。…
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“市民病院建て替え”に254億円寄付!病院長「え、信じられない」…寄付したのは70代の元会社役員夫妻 背景に“大震災ボランティア”|FNNプライムオンライン
兵庫・宝塚市に約254億円という巨額な寄付が寄せられた。驚愕の大金を寄付したのは、市内に住む元会社役員、岡本光一さん(77)と明美さん(75)夫妻。現地を緊急取材すると、寄付の背景に“大震災ボランティア”の存在があった。 「あまりの金額に担当者が緊張し過ぎています」 兵庫・宝塚市民: あまりにも(金額が)大きすぎて、ちょっとピンと来ませんけれども。“奇特な方”がおられるなと思います。 この記事の画像(8枚)寄付金の内訳は、「市民病院の建て替え費用」として250億円。残りの約4億円は、光一さんから「手術支援ロボットの購入費用」として寄附されたという。 市の担当者の“慌てふためきぶり”は、SNSへの投稿からも伝わってくる。 兵庫・宝塚市の公式SNS 「再三の投稿修正で申し訳ありません。あまりの金額に担当者が緊張し過ぎています」 イット!は4日、この254億円もの“巨額すぎる寄付”を受けた宝塚市立病院を取材した。 記者リポート: 病院の裏側なんですが、少し汚れが目立ちますね。 築40年以上が経ち、建物はたしかに老朽化している。 それでも、300床以上ある地域の拠点病院として、市民の命を守っている。 寄付をした岡本光一さん(77)「阪神・淡路大震災の時に…」 今回の“超巨額寄付”を病院側はどう受け止めているのか。 宝塚市立病院 岡田敏弘病院長: 配管のところが、40年経って来ますとなかなか厳しくなってきて(修理すべき)。 うれしさというよりも、「え、信じられない」っていう…この254億に重責といいますか。 驚きの声は病院を利用したことがある人からも聞かれた。 兵庫・宝塚市民: すごい人がいるなと。もう(病院が建って)40か50年ぐらいだしね。 一方で、こんな声も。 兵庫・宝塚市民: “寄付で成り立ってしまう”のは、逆にちょっと怖いところはあるかなと。 想像のはるか上を行く寄付をした岡本さんご夫婦の“人物像”は、寄付に当たっての言葉に表れていた。 寄付をした岡本光一さん(77): 阪神・淡路大震災の時に、私たちはボランティアを初めて経験しました。財団を設立し、相談にのっていただいたのが宝塚市さんでした。 宝塚市民のためになるのであればとの思いで、今回、宝塚市立病院建替え費用のための寄附をする事となりました。 夫の光一さん(77)は元々、電子関係の技術職で、阪神・淡路大震災をきっかけにボランティアを始め、公益財団を設立した。…
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真弓明信氏「優勝の話になると、真弓がコンバートをOKしてくれたからと…」吉田義男氏悼む(日刊スポーツ)|dメニューニュース
85年の阪神日本一メンバーが3日に亡くなった吉田義男氏を悼んだ。1番打者として強力打線をけん引した真弓明信氏(71=日刊スポーツ評論家)はコンバートの思い出を振り返った。 ◇ ◇ ◇ 最近顔を見ていなかったから、心配はしていた。それでも元気だったから、ショックだよ。 85年に、監督を胴上げしたのは、今も鮮明に覚えている。その中でも一番の思い出に残っているのは、コンバートを言われた時だ。前の年は二塁を守っていたが、(監督に)就任した時に「外野をやってくれ」とね。自分の中では膝も悪くなっていたし、二つ返事だったけど、こんな条件をつけてね。「内野でケガ人が出たから戻れと言われても、すぐに戻れませんよ。そういう覚悟でなければ、行きたくない」。その後、優勝の話になると、「真弓がコンバートをOKしてくれたから」とよく話してくれた。よく印象に残っているよ。 攻撃か守りかというと攻撃型の監督だった。85年は俺が1番、2番は弘田(澄男)さん。「エンドランのチャンスがあれば、サインを出し合えよ」と言われていた。当時はベテランが多かったが、選手を信じて使っている。そう感じた。走者を送るところはバントで送って、1点を取りにいくという手堅い野球もやっていたけどね。(09年に)監督になった時には「自分の色を出して思い切ってやれ」と何度も励まされたよ。 ちょうど監督とは20歳違う。去年は一緒に回れなかったけど、ゴルフを元気にされていた。90歳になってもゴルフができる。そういう年の取り方をしたい、という俺たちの目標だった。本当に残念。タイガースの一番の貢献者だ。
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「寒い!」数年に一度の大寒波 南国・鹿児島も銀世界 5日未明から警報級の大雪の恐れ 交通の乱れも|KYT NEWS NNN
数年に一度の強い寒波の影響で4日の県内は各地で雪が積もりました。薩摩地方の山地では5日未明から昼前にかけて警報級の大雪となる恐れがあり、積雪や路面の凍結による交通の乱れなどに警戒が必要です。(記者)「午前8時半を過ぎまして本格的に雪が降り始めました。頭にも雪が積もっています。西郷隆盛銅像も心なしか寒そうに見えます」 4日朝。数年に一度の強い寒波は南国・鹿児島を銀世界に変えていました。鹿児島市の最低気温は今シーズン最も低い0.5℃。 通勤・通学の時間帯の鹿児島中央駅では、手袋やマフラーをしたり、コートに身を包んだ人たちが足早に職場や学校へ向かっていました。(通学の女性)「重ね着めっちゃしています。きょうたぶん5枚ぐらい着ている」(記者)「家出るときはどんな気分でしたか?」(通学の女性)「出たくない。帰りたい」(親子)「すごく寒いです。いつもと比べて。寒い。車で来てJRに乗るんですけれどチェーンを買いました」 出水市では約3cmの雪が積もりました。国道328号の紫尾峠では、融雪剤が撒かれていましたが、それでも、雪でタイヤが滑り立ち往生する車や、上るのを諦めてUターンしていく車もいました。(運転手)「滑って上にいけない。想定外」(運転手)「ちょっともう、無理ですね」 道路にはチェーン規制の表示。車を道路脇に止めて、タイヤにチェーンを巻く人の姿もありました。積雪や凍結のため4日午後6時現在も8か所が通行止め。27か所でチェーン規制が敷かれています。 またJR九州によりますと、積雪に伴う信号のトラブルで鹿児島本線や指宿枕崎線の一部区間に遅れが出ました。(記者)「鹿児島市川上町の中古車販売店です。こちらに展示されている車もフロントガラスに大量の雪が積もっています」 雪の影響は商売にも。こちらのゴルフ場では。(南国カンツリークラブ・柳井正男支配人)「4日はあいにくこういう状態で、ゴルフできる状態ではありません。クローズ(閉鎖)です。天候をみて、5日までクローズする予定。ゴルフ場は天気商売でつらいです。お客さんからの問い合わせはもたくさん来ています。特に県内の他所のゴルフ場もこういった状況でクローズになっていて、ゴルフしたい方は、とにかくどこかでゴルフをやりたい。あちこちに電話をかけまくって、朝から電話が殺到して大変です」 4日は100件以上の問い合わせがあったということです。文部科学省によりますと大雪の影響で県内の7つの学校が休校。19の学校で短縮授業の措置が取られたということです。 5日午後6時までに予想される雪の量は薩摩地方の山地で20センチ、平地では10センチ。その後、6日午後6時にかけて山地ではさらに5センチの雪が予想されています。 寒波の影響で交通に影響が出ています。 鹿児島市交通局によりますと鹿児島市電は4日午後8時以降の便から運行を見合わせるということです。5日始発から運行を見合わせます。 市バスは5日も通常運行する予定です。一方、南国交通の鹿児島市内の路線バスは始発から運行を見合わせます。 海上もしけているため、種子島・屋久島を結ぶ高速船や「プリンセスわかさ」が5日の便の欠航を決めています。 商業施設の営業にも影響が出ています。マルヤガーデンズは4日午後7時に閉店。5日の営業は未定だということです。(4日午後6時現在) 県本土では今夜にも大雪警報が発表される可能性があります。雪の降り方や注意点など佐藤気象予報士の解説です。 4日夜から5日朝にかけて県本土では大雪警報が発表される可能性があります。特に薩摩地方は濃いピンク色で、警報級の可能性が高くなっています。予想される雪の量は5日の夕方までの24時間で、薩摩地方山地20センチ、薩摩地方平地 10センチ、大隅地方山地10センチ、大隅地方平地5センチです。 6日夕方にかけては、薩摩地方山地5センチ、薩摩地方平地1センチなどとなっています。薩摩地方の平地でも積もる所がありそうです。このあとの雪の予想です。 薩摩地方では今雪が降っていないところも夜遅くになるにつれてり出すところが多いでしょう。5日の朝通勤通学の時間帯は薩摩地方で広く雪。鹿児島市街地や南薩でも降る見込みです。昼ごろには雨に変わる所が多いでしょう 積雪や路面の凍結による交通障害や農作物の管理に警戒してください。 最終更新日:2025年2月4日 19:48
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プロ野球 阪神元監督 吉田義男さん死去 91歳 初の日本一に導く | NHK
プロ野球、阪神の名ショートで監督としても1985年に球団を初の日本一に導いた吉田義男さんが脳梗塞のため、3日亡くなりました。91歳でした。 吉田さんは京都府出身で、立命館大学を経て1953年に当時の大阪タイガースに入団しました。走攻守三拍子そろった選手として1年目からショートのレギュラーで活躍し、軽快で華麗な守備から「牛若丸」と呼ばれ、1962年と1964年の2回のリーグ優勝に貢献しました。プロ通算17年で打率2割6分7厘、1864本のヒットを打ったほか盗塁王も2回獲得しました。引退後は阪神の監督を3回務め、2回目に指揮をとった1985年には、三冠王を獲得したランディ・バース選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手ら強力打線を擁して球団創設以来、初の日本一に導きました。阪神では長年の功績をたたえて現役時代の背番号「23」を永久欠番としたほか、1992年には競技者表彰で野球殿堂入りを果たしました。また阪神の監督のほかにもフランス代表の監督を務め国際的にも活躍しました。関係者によりますと、吉田さんは最近、体調を崩していたということで、脳梗塞のため3日亡くなりました。 91歳でした。 吉田義男さんの死去を受けて阪神の粟井一夫社長は「心よりお悔やみ申し上げます。現役時代は華麗な守備で『牛若丸』と称され、監督としても日本一に導かれるなど、多くの功績を残し、現在も『23番』の背番号は当球団の永久欠番となっております。退団後も球団関係行事へ献身的にご参加いただくなど、長きにわたって球団の発展へ貢献いただいたことに対しあらためて感謝の意を表するとともに、これまでのご功績に敬意を表し、心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。 阪神の藤川球児監督は「突然の訃報に驚いています。偉大な大先輩であり、またお元気な姿で再会して叱咤激励いただけるつもりでいましたので、残念でなりません。すばらしい先輩がたが作り上げた伝統を、私たちが責任を持って受け継ぎ、また次の世代に繋いでいきたいと思いますし、天国の吉田さんに良い報告ができるように目の前のことに全力を尽くしてシーズンを戦っていきます。ご冥福を心よりお祈りいたします」とコメントを出しました。
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【仰天】70代夫婦が兵庫・宝塚市に「254億円」寄付! その人物とは?「市民病院の建て替え費用に」 市の担当者も詳細わからず(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) – Yahoo!ニュース
兵庫・宝塚市にとんでもない額の寄付が寄せられました。 宝塚市によると、その額、何と約254億円。 まさに驚愕の大金を寄付したのは、市内に住む元会社役員・岡本光一さんと明美さん夫妻です。 宝塚市民「あまりにも(金額が)大きすぎて、ちょっとピンと来ませんけれども“奇特な方”がおられるなと思います」と話しました。 寄付金の内訳は市民病院の建て替え費用として250億円。 残りの約4億円は光一さんから手術支援ロボットの購入費用として寄付されたといいます。 市の担当者の慌てふためきぶりは、SNSへの投稿からも伝わってきます。 宝塚市 公式Xより: 再三の投稿修正で申し訳ありません あまりの金額に担当者が緊張し過ぎています 「イット!」は4日、この巨額すぎる寄付を受けた宝塚市立病院へ。 築40年以上が経ち、建物は確かに老朽化。 それでも300床以上ある地域の拠点病院として、救命救急にも力を入れ、市民の命を守っています。 今回の超巨額寄付を病院側はどう受け止めているのでしょうか。 宝塚市立病院・岡田敏弘病院長: 配管のところが、やはり40年たってきますとなかなか厳しくなってきて(修理する)。うれしさというよりも「え、信じられない」っていう。この254億に重責といいますか。 驚きの声は、病院を利用したことがある人からも聞かれました。 宝塚市民は「すごい人がいるなと。もう(病院が建って)40か50年ぐらいだしね」と話す一方で、「寄付で成り立ってしまうのは逆にちょっと怖いところはあるかなと」といった声も。 想像のはるか上をいく寄付をした岡本さん夫妻。 その人物像は、寄付にあたっての言葉に表れていました。 寄付をした岡本光一さん(77): 阪神・淡路大震災の時に私達はボランティアを初めて経験しました。財団を設立し、相談にのっていただいたのが宝塚市さんでした。宝塚市民の為になるのであればとの思いで今回、宝塚市立病院建て替え費用のための寄附をする事となりました。 夫の光一さんは、もともと電子関係の技術職で、阪神・淡路大震災をきっかけにボランティアを始め公益財団を設立。 過去にも福祉施設の改修費用4億円などを尼崎市に寄付したことがあるといいます。 それにしても254億円ものお金をなぜ用意することができたのか。 市の担当者に聞いたところ、「我々も詳細は分からないんです…」とのこと。 今回の寄付にあたっては、市が基金を設置し、「5年以内に新病院の設計に着手する」などの条件が盛り込まれています。 関西テレビ FNNプライムオンライン(フジテレビ系)…
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元阪神監督の吉田義男さん死去、91歳 85年に球団初の日本一導く 現役時は「今牛若丸」の異名 – プロ野球 : 日刊スポーツ
吉田義男さん(2017年2月撮影) プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。 現役時代は名遊撃手として、華麗な守備から「今牛若丸」の異名を取った。監督を務めた85年には21年ぶりのセ・リーグを制する。そして日本シリーズでも西武を倒し、日本一に。球界の枠を超え、戦後昭和史に残る一大フィーバーを巻き起こした。 吉田さんは京都府出身。山城高から立命大を経て、53年に阪神へ入団した。 高い意識を持って、遊撃の守備力向上に努めた。寝るときと食事のとき以外はグラブをはめて過ごしていたといわれる。捕るが早いか、投げるが早いか。捕球から送球までの素早さは、他の追随を許さぬものだった。55年に来日したヤンキースの選手たちの投票による「アウトスタンディング・プレーヤー」(最も傑出した選手)に選ばれ、同球団からトロフィーが贈られた。 小技の利く打撃も、他球団の脅威だった。1年目の53年から、13年続けて規定打席に到達。54、56年には盗塁王にも輝いた。 62年には阪神のセ・リーグ初優勝にも貢献。東映との日本シリーズ第1戦では、怪童とうたわれた尾崎行雄からサヨナラ二塁打も放った。また64年には自己最高の打率3割1分8厘を記録し、2度目の優勝も味わった。 69年に現役引退。通算2007試合、1864安打はいずれも球団3位。同2位の350盗塁は、赤星憲広(381盗塁)に抜かれるまで長らく阪神史上最多だった。 阪神の監督を3度務めた、唯一の存在でもある。第1期の75~77年には優勝には届かず。 85年に復帰すると、チームの改革に打って出る。真弓明信を内野から右翼へ回し、岡田彰布を入団当時の二塁手に戻した。遊撃には名手の平田勝男、捕手には木戸克彦を抜てきし、センターラインを固めた。一塁には日本に慣れたバース、不動の三塁には掛布雅之と、役者がそろった。 4月17日巨人戦(甲子園)では、バース、掛布、岡田が伝説のバックスクリーン3連発を成し遂げる。これで勢いに乗った阪神は、21年ぶりのセ・リーグ優勝を飾った。余勢を駆って臨んだ日本シリーズでも西武を一蹴し、球団初の日本一に輝いた。 グリコ森永事件、豊田商事問題、そして日航機墜落事故…。騒然とした世の中を問答無用の明るさで突っ走った快進撃が高く評価され、阪神初の正力松太郎賞を受賞した。 86年には掛布ら主力の故障がたたり、3位に。そして87年には最下位に沈み、退任。現役時代の背番号23が永久欠番となった。 その後は野球フランス代表の監督として、異国で野球の普及に尽力する。フランス語の男性への敬称「ムッシュ」と呼ばれるきっかけにもなった。92年には野球殿堂入りも果たした。 97年には、阪神監督に3度目の就任。同年5位、翌年98年は最下位に終わり、ユニホームを脱いだ。 2000年から日刊スポーツ客員評論家となる。ABCテレビ、ラジオの解説でも、温かみのある京都弁で人気を博した。古巣の阪神を中心に、球界へ愛情あふれる提言を続けてきた。 ◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城を経て、立命大を中退し53年阪神入団。54年、56年盗塁王。ベストナイン9度は遊撃手最多。通算2007試合、1864安打、打率2割6分7厘、66本塁打、434打点。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。85年セ・リーグ制覇、日本一で正力松太郎賞。監督通算484勝511敗56分け、勝率4割8分6厘。92年殿堂入り。背番号「23」は永久欠番。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち 【関連記事】阪神ニュース一覧 Page 2 吉田義男さん(2017年2月撮影) プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。 現役時代は名遊撃手として、華麗な守備から「今牛若丸」の異名を取った。監督を務めた85年には21年ぶりのセ・リーグを制する。そして日本シリーズでも西武を倒し、日本一に。球界の枠を超え、戦後昭和史に残る一大フィーバーを巻き起こした。 吉田さんは京都府出身。山城高から立命大を経て、53年に阪神へ入団した。 高い意識を持って、遊撃の守備力向上に努めた。寝るときと食事のとき以外はグラブをはめて過ごしていたといわれる。捕るが早いか、投げるが早いか。捕球から送球までの素早さは、他の追随を許さぬものだった。55年に来日したヤンキースの選手たちの投票による「アウトスタンディング・プレーヤー」(最も傑出した選手)に選ばれ、同球団からトロフィーが贈られた。 小技の利く打撃も、他球団の脅威だった。1年目の53年から、13年続けて規定打席に到達。54、56年には盗塁王にも輝いた。 62年には阪神のセ・リーグ初優勝にも貢献。東映との日本シリーズ第1戦では、怪童とうたわれた尾崎行雄からサヨナラ二塁打も放った。また64年には自己最高の打率3割1分8厘を記録し、2度目の優勝も味わった。 69年に現役引退。通算2007試合、1864安打はいずれも球団3位。同2位の350盗塁は、赤星憲広(381盗塁)に抜かれるまで長らく阪神史上最多だった。 阪神の監督を3度務めた、唯一の存在でもある。第1期の75~77年には優勝には届かず。 85年に復帰すると、チームの改革に打って出る。真弓明信を内野から右翼へ回し、岡田彰布を入団当時の二塁手に戻した。遊撃には名手の平田勝男、捕手には木戸克彦を抜てきし、センターラインを固めた。一塁には日本に慣れたバース、不動の三塁には掛布雅之と、役者がそろった。…
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【悼む】今も戒めとなった阪神元監督の吉田義男氏の問いかけ「これで飯食ってますねん」(日刊スポーツ)|dメニューニュース
2023年7月、誕生日のお祝いで記念写真に納まる吉田義男さん プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。2000年から日刊スポーツ客員評論家に就任し、健筆をふるった。担当として接してきた寺尾博和編集委員が故人を悼んだ。 ◇ ◇ ◇ 最後に吉田さんに会ったのは年末のことだ。すでに病床にあったが、深く息をし、わたしの手を握り返した。いつか息を吹き返すと信じていたし、その様子もましになってきたように察していただけに突然の別れになった。 阪神タイガースを愛した人だった。「早いねぇ。もうキャンプですなぁ」。「今年はどうでしょうな」。はんなりとした京都弁で交わす会話の中心は、いつも野球で、大半は自分が育った阪神の話題だったような気がする。 史上最強ショートで「今牛若丸」の異名をとった吉田さんは、とことん守備にこだわる人だった。現役時代にメジャーが来日したとき、ヤンキースの名将ステンゲルから「ヨシダをアメリカに連れて帰りたい」といわれた。そのプレーは「ファインアート」と表現されたほどの芸術的華麗さだった。 日刊スポーツ客員評論家として甲子園球場のネット裏から一緒にみた試合をみたときに生じた併殺プレーで、突然「あんた、今のセカンド、どっちの足でベースタッチしたかわかりますか?」と問いかけられた。 甲子園の記者席から二塁ベース付近まで、テレビのスローならともかく、一瞬のことで不覚にも答えることができなかった。「わたしら、これで飯食ってますねん」。野球記者として背筋が伸びたし、阪神戦をみるときは気が抜けなかったし、今でも戒めになっている。 古巣を語るときの吉田さんは、厳しくもあったが、やさしかった。1953年のプロ入りから現役として2度のリーグ優勝、85年は監督として球団初の日本一に導いた。今年は球団創設90周年だが、吉田さんは72年の長きにわたって阪神とかかわってきたことになる。 球団の栄光と挫折が交錯した長い歴史を知り尽くした。華麗な守備は失敗しながら身につけた技だった。タテジマの伝統がしみついた小さな体でしたプレーはファンを魅了した。監督として日本一になったシーズンを語る吉田さんは日付まで覚えていて軽妙でうれしそうだった。 23年に岡田監督で日本一になった瞬間、自宅から携帯電話に話しかけた。「岡田、おめでとう! おめでとう!」。まだ岡田さんはテレビの向こうでインタビューを受けているのを知りながら、画面に向かって何度も語りかける目には涙がたまっていた。 また吉田さんにとっての“第2の故郷”は、花の都パリだ。阪神で「天国と地獄」を味わった後、異国で新たな生き甲斐を見つけるのだった。仏ナショナルチーム監督として、欧州から五輪出場を目指した。野球が普及していない国で伝道師になった。 フランスにとって吉田さんは“野球の父”になった。今でもパリではその功績をたたえて「吉田チャレンジ」と銘打った国際大会が開催されている。現地では運営のお手伝いをしてきたが、最後まで野球にこだわり続ける姿に頭が下がった。東京五輪で競技種目に野球を復活させるためにも尽力するなど、プロ・アマ通じて野球界に貢献してきた。【寺尾博和】
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